上がる落雷

 

今の自分がもっとも大人であり、振り返ると大人であると思っていたあの頃の自分がもっとも若いことに恐ろしくなります。あの頃に生まれた感情の蓄積を目で見ることはできず、今の感情であの頃を生き直すことができないのは途方もないことです。あの日通らなかった道も、知らなかった言葉も、気づかなかった風もすべて編み直すことはできず、時間の広大さに目が眩んでしまうようです。鏡を見つめると知らない人間がうつっています。一人にさせてくれ、だけど孤独はつらい、私のわがままを満たすために、私の半身以外が見えなくなってしまいます。頬を伝う汗に沿って、手を繋いで街を走ってみます。速度を上げるとより自分が霞んでいって、世界と一体化して、ここで私の孤独は柔らかくなります。

2年前の冬の梅田駅は冷たく、ホームから遠くに見える空は妙に暗かったです。MONDO GROSSOの「何度でも新しく生まれる」を聴いて電車を待ちながら、うるさいくらいに明るい部屋から出られなかったのだと思います。あの頃は、あの頃も、何を考えていたのか一つも思い出せません。昨日のことも思い出せません。恐ろしく小間切れの私が瞬間ごとに色褪せていきますが、それを悲しいこととも思いません。過去を今の言葉で記す淋しさの中には今を生きているという実感が伴い、見逃してきた風景に思いを馳せることはまだ見ぬ世界があることの証拠のようです。辛かったあの日を笑い飛ばせる日は来ないですが、明日の心がいたたまれない確信もないのです。一瞬で終わる雷鳴が響くのはかなり先のことだと思います。

鏡を振り返っても何も見えません。